私にとってははるかに「いつもの方(笑)」であった、政治経済ネタを一本間に入れたので、改めて交通整理。
当ブログでの、 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の、
そして当記事が、ネタバレあり批評【2】になります。
まずこのブログタイトルの意味について。
前の記事を書いてから、いくつかの「Q ネタバレ」のブログ様を読ませていただいたが、
「さすが庵野秀明!」
「一杯食わされた!」
「これこそエヴァだ!」
という声がちらほら。それらは、もちろん個人的な感想として、私なんぞがどうこう言う筋合いなどないのだが、やめてほしいのは、
「これが面白いと思えないのは真のエヴァファンじゃない」
「なんだかんだ言って庵野の手のひらの上で踊らされてるんだよ」
という、
?「何が『ファンとして正当か』論争」と、
?「何を語っても、庵野様の深謀遠慮などわからないのだよ」という、庵野秀明の神格化
である。?については、皮肉としては面白すぎるが(笑)。
例えばパンフレット(安い方w)の、p.9、アスカ役の宮村優子インタビューで、
そうしていくうちに監督が、「アスカはもうプロの傭兵なんだ」って、おっしゃって。
と書いてあるが、「ネタバレあり編1」で書いたように、エヴァの急な電池切れの直後に、シンジのエヴァno13に殴られたからって、
「女に手を上げるなんて最低!」
と普通に言うのが「プロの傭兵」なんすか????
本気でタマ取り合ってないやんけ。どこが「プロの傭兵」なのよ。「プロの傭兵的ディレクション」というのは、例えば、90年代の『バットマン・リターンズ』で、ミッシェル・ファイファー扮するキャットウーマンが、バットマンとの殴り合い(笑)で不利になったときに
キャットウーマン「何するのよ!私は女よ!」
バットマン、一瞬ひるむ
キャットウーマン、すかさずバットマンに蹴りw(ヘタすると金的)
くらいのことをするのが、私基準の「プロの傭兵」なんだが。
そういうディレクションができたりできなかったり、周りのスタッフや声優たちと苦労しながら、言葉を探りながら、もぞもぞやっている「普通のアニメ監督」なのが、庵野秀明なんだと思うよ。
庵野秀明を本当に「神」だと思いたいなら、アスカが本当に「プロの傭兵」に見えるように脚本調整とディレクションをするようになってから思ってほしいものだ。だから、「庵野秀明神格化バカ」は、限りなく見ていて痛いのだ。
あ、あと、アスカの目が、顔面比で微妙に大きくなっているのも、いかにもアニメヲタを釣りたくてしょうがない薄っぺらさを感じるね。
「神」なら「中身」で勝負したら??
マリもこんなことも言っていた。
マリ「しっかりしろわんこクン!せめて姫を助けろ!男だろ!!あと、もう少し世間を知りニャー!!!」
白河シンジ「14年以上もニャーニャー言ってるお前に言われとうないわ!」
あれから14年経っても、口調やノリ一つ変わらないマリって・・・渚カヲル以上に不自然な存在なんだが。
まだまだ疑問は出てくる。「破」の最後で「サードインパクト」が始まったんだ!的な「設定」で「Q」が普通に始まっているんだが、「破」のラストシーンで、空から槍が刺さって、「シンジとレイの合体状態」が通常に戻った演出をしていたよね。(あれ、たぶん、カヲルがヤリ投げしたんでしょ?)
あの槍、いつ、誰が抜いたの?「サードインパクト」が始まったというのなら、あの「設定」とつじつまが合わないよね?槍を抜かなくてもサードインパクトは始まったんだ!というご意見もあるようだが、槍が刺さって、空の色が露骨に「通常モード」に戻っているんだが。破を見ている人なら覚えているよね?
「いやー、そこが庵野の神たる所以なんだよ。俺たち凡愚にはわからないものだよ」
とか言うのなら、「庵野宗」でも作って宗教活動やってなよ。(仏教徒の方、ごめんなさいね)
あれから10年以上経っても、自分で広げた風呂敷をたためない、ややいまいちな「普通の人」にしか見えないし、庵野自身も、勝手に神格化してほしいとなぞ全然思ってないと思うよ。
「自分がやりたいことをやって、お客さんが喜んでくれて、興行収入が上がって万歳!」
でいいでしょ。
だからこそ、いろいろ知りたくて、もう3回も私が観に行った、ということを指して「庵野の術中にハマっているな!(キリッ!!」というお言葉には全く反論するつもりがないし、私もそう思う。それは全くもって正確な指摘である。ただ、
1 興行的に盛り上がっていることと、アニメ制作者として神格化するべきかどうかは別次元の問題で、
2 神格化したいのなら、「内容」で勝負しろ。勝手に「不可知論」に逃げるなバカ。
ということだ。あ、あくまでも私の「個人的意見」なので、読者がどう思うかは関知しない。ただ上記のような言葉で他人にドヤ顔すんな、ということだ。
あー、ギスギスした記事にしてもうた。ちょっと柔らかい話題にいこか。
ネットでは細々と、「鈴原トウジは生きてるのか?」という疑問が出ているようだが、私は生きていると思うよ。なぜなら、トウジがサードインパクトで死んでいたなら、妹の鈴原サクラが
「よかったですね、碇さん」とか
「兄がお世話になりました(にこっ)」
とかは、絶対に言わないだろうから。その辺も「:¶」で教えてくれればうれしいが、ほっぽっとくかも知れない。
あと、ネタバレなし編に書いた「2」の方だな。
2 上映時間が短い。公開をあと1年延ばしたってファンは観る。「そこはもうちょっと説明しろよ!!」というところが、いかにも「人手不足、時間不足」でカットしました、的な作り方で、粗雑だと言わざるを得ない。
これがどこかと言うと、シンジが初めて「サードインパクトの結果」を見るシーンだ。あそこはもう少し細かく描写してくれないと、シンジが
「ボクのせいじゃない!」
と自己弁護する姿があまりにも幼児過ぎるように見えてしまう。アスカの言う「ガキシンジ」は、アスカの描写が全く「プロの傭兵」どころではないガキ臭さの上に、アスカがシンジにどういう感情を持っているのか、これまた時によってコロコロ変わるので、アスカの言う「ガキ」の意味は全く理解できない。だから、
「アスカが『ガキシンジ』と言ったから、シンジは『ガキ』でいいじゃん!」
という主張は、その前提部が「意味をなさない発言」になっているがゆえに、論理的に不成立なのである。
だからこの辺は、第三者である観客が、シンジの「ガキ具合」を、ある程度確信を持って判断できるように、もう少しCGやらセル画(今こういうの作ってるの?わからなくてすみません)を足すべきところだと思うよ。
あと、ネタバレなし編の1とも絡むけど、カヲルが
「僕と一緒に13号機に乗って、槍を使えば、世界を元に戻すことができる。」
と語ったときに、シンジが
「どんなふうに?」
とも聞かずに、
「うん、そうだね」
と普通に納得するのも、人物設定として無理がありすぎるだろ。もう「ガキ」だかなんだかわからない、「頭のおかしい人」状態なのだが。
さらに、綾波が昔の綾波と別人(綾波シリーズ)だと冬月に教えられたからと言って、シンジが
「僕は綾波を助けていなかったんだ!」
と錯乱するのも、正直に言って、意味がわからない。「あのときの綾波を助けたこと」は、「今の綾波があのときの綾波とは別の存在である」、という事実では「否定」できないんだが。
ここも無理筋。
だから、クライマックスのエヴァvsエヴァシーンでも、カヲルが何かに勘づいて羽生善治の長考状態(笑)になっているのに、
「そうか、そういうことか!」
とカヲルが言っても、シンジは何も聞かないし、上の描写くらい(笑)カヲルに心酔(笑)しているシンジが、カヲルが
「やめよう、いやな予感がする!」←オイオイ、「そういうことか」で何かわかったんちゃうんかい!
と言っているのに、その理由を聞かずに、強引に槍を抜く。
で、槍を早々と抜いて、フォース(fourth)インパクトが始まりそうになってから初めて、
「ボクがこんなことをしちゃったんだ!」と後悔する。なんじゃそりゃ。庵野はどこまでシンジを「低知能者」として描けば気が済むのか。
この、クライマックスシーンにおける「無理筋」の連発・・・・演劇だったら、「クソ芝居」の一言で片付けられるレベルなんだがなあ。
恥ずかしながら私もプロの演出家の下で役者・演出修行をしたことがあるが、こんな脚本や演技だったら、師匠は一瞬苦笑して、その直後灰皿がズキューンと飛んでくるレベル。灰皿を飛ばす演出家は、なにも蜷川幸雄だけじゃないのだよ(笑)。むしろ、あの世代のプロの演出家は、普通に灰皿を飛ばす。
まあ、私がこういうバックボーンを持っているから、「人間をしっかり描けよ庵野!!」と怒りたくなるんだろうなあ。「演劇のセオリーを勝手にアニメにあてはめんな!」という声も聞こえてきそうだが、演劇だろうがアニメだろうが、「人間を基準にした感情を持つ存在のふるまい」を表現するものは、観る人が人間である限り、「人間としてありうるか」という基準でその作品を観る以上、根は一緒だよ(byカヲルw)。
例えば、犬が犬らしいか、という点も、「人間から見て」という前提が必ずつく。スヌーピーのように、擬人化された犬であっても、「擬人化」という言葉の意味通りに、「人」としてありうるか、という観点からその言動が読者にとって「通る」か「通らないか」が決まる。特に「感情が自然に通るかどうか」はそこで決まる。この映画は、その辺の彫り込みがやっぱり足りない。こうして書けば書くほど足りない感が出てくる。
やっぱり最後の砦はミサトか。最初は
「碇シンジくん・・・でいいのよね?」
とリツコに聞き、次は
「碇シンジくん・・・あなたはもう・・・何もしないで。」
と冷徹に突き放し、その後の「面会」シーンでは
「シンジ君、綾波レイはもう存在しないのよ。」
と、呼称が変わる。
次は
「ダメよシンジ君、ここにいなさい。」
と、躊躇せず「シンジ君」と呼ぶことがデフォルトになる。この辺りだけ妙にリアルなんだよなあ。
そしてクライマックスで、フォース(fourth)インパクトが始まるか?ちょっと止まったのか?という実に微妙なところで、綾波no.9をなんとか引きはがしたヴンダーが、13号機を追跡しようとしたときに、リツコに「主翼の修理をしないと無理よ」と言われたときに
「シンジ君!」
とかすれ声で一言叫んだと記憶している。あの 「シンジ君!」に、
「ダメかも知れないけれど・・・生きていて!」
という、声の調子から少しだけ漏れる、シンジに対する深い深い愛情を感じるんだよな。もう「面会」時から、ミサトはシンジに死んでほしくなくてたまらない、でもヴィレの艦長としては、アスカとマリに命がけでエヴァを殲滅するよう命令せざるを得ず(=シンジを殺せという命令をせざるを得ず)、その板挟みの感情はリツコにはバレバレなのだが、それでも艦長としては隠さざるを得ない。そういう「押し殺した叫び」に、「序」からず〜っと続いてきた、葛城ミサトの、碇シンジに対する「愛情」を痛いほど感じる。
ここは、三石さんと庵野さんのコラボレーションがビタッと嵌った、実にいいシーンだと思った。ただ、本当に「一瞬」なのであるが。
そういう点から、この「Q」は、「序」と「破」から、確実に続いているものなのだとシミジミ感じる。
それであのコスチューム(笑)、もうドラが乗りまくっている。ネタバレなし編で、
・ほぼミサトだけで、この映画全体を引っ張っていた
と書いた所以である。
ふう。後半に良かった点が書けて良かった。
また思いついたら追加するけど、カヲルとのホモホモしい話はどうでもいいかな。あの程度でホモホモしいんだったら、世間の男子中高生は4割くらいホモホモしくて疲れる(笑)。